2010年5月27日木曜日

人類の進歩と不調和の時代

小学校に上がる前に、住吉公園から西淀川区の野里に引っ越した。
ピカピカの一年生は、野里小学校で迎えたハズ。(ちなみに、入学式の記憶はない)

その頃の、記憶を手繰ってみる。(あくまでもアバウトな記憶、時代考証はかなり甘い・・・)

まず最初は、『夢の超特急!、新幹線ひかり号』の話である。
親父が、当時建築関係の会社に勤めていて、新幹線の駅舎の工事を担当していたおかげで、開業前の試乗試運転の家族招待を受けたらしい。(要するに実験台やな)
新大阪駅から米原駅までの短い距離だったが、子供心にすごく優越感に浸ったことを覚えている。
何せ、学校では、友だちも先生も誰も乗ったことがないのだから、うれしかったはずだ。
でも新幹線が速かったと言う記憶はまったくない。

今、歴史を振り返ると、当時在来線の『特急こだま』で、東京⇔大阪間を6時間以上、掛かっていた訳で、それを一気に半分に短縮したのだから、いかに新幹線が速かったのかがわかるな。

それと、忘れてはいけないのが、東京オリンピックだが、はっきり言って、ほとんど記憶がない。
ただ、『東洋の魔女』と呼ばれていた、女子バレーが強かったことだけは、うっすらと覚えている。

話は変わるが、あの頃の野里界隈には、まだまだ空き地や田んぼがあった気がする。
そして路面電車が近くを、走っていた。
淀川では潮干狩りができていたが、あの頃、急激に水質が悪化し、大きな看板で『遊泳禁止』と張り出されたのを覚えている。

当時、近所の女の子(今に思えば初恋の子かな?でも名前も顔も覚えていない)のお父さんが
水の綺麗ないいところに連れて行ってあげるといって、遊びに行ったのが、今の交野の天の川界隈である。とにかく、大阪にこんなに綺麗ところがあるんだと思った。

あの頃の日本は、すごい勢いでいろんなものを飲み込み、そして破壊しながら成長していったんだなと思う。

2010年5月26日水曜日

「ひろりん」って誰やねん

俺は1957年生まれ、今年11月で53歳。

大阪生まれ、大阪育ち

生まれたのは、住之江区か港区、どちらかだと思う。
もう両親は他界しているので、今となっては謎だ。

自分の記憶にある一番古いことは、幼稚園児の頃、住吉公園近くの自宅から、友達と雪の降る町へ行くといって、北へ向かって歩いて行き、玉出付近で迷子になり、おまわりさんに助けられ、交番で拳銃を触らせて貰ったこと。きっとその後で、母親は始末書を書いたんだろうな・・・

もうひとつ、その頃の記憶で、家の前の道で友達とけんかになり、弁当箱をぶつけられ、おでこを2針縫う怪我をしたこと。今も、うっすらと傷跡が残っている。

その2つは、写真が残っていないにもかかわらず、記憶に残っているので、かなり強い記憶だったんだろう。その時の友達の名前も顔も思い浮かばないが、彼の記憶には残っているのだろうか?

当時、警察にご厄介になったことで、母親からよく聞かされたことが、もうひとつある。
これもまた、行方不明の迷子騒ぎだ。友達とかくれんぼをしていて、行方不明になったらしい。

結論から言うと、お隣さんの、押入れの布団の中で寝ていたらしい。夜遅くになっても、なかなか見つからないので、子供を寝かせるといって、布団を敷こうとしたら、中から転げ落ちてきたらしい。
寝ていた訳だから、勿論、私に記憶にはないが、昔話になると、何かと母が言っていたので、よく覚えている。きっとその時も、母は始末書を書いたんだろうな・・・

その頃の下町は、向こう三軒両隣で、子供も大人も、自由に行き来していた記憶がある。
名前も顔も覚えていないが、なんとなく幸せだった古きよき時代である。