2010年6月23日水曜日

工場見学

6月20日の日曜日、北大阪商工会議所の青年部のイベントで、恩地食品株式会社の京都工場へ家内と行ってきました。

その日は、朝から体調が悪く、吐き気がしていて食欲もなく、工場見学を取りやめようかと思っていました。

まして、私は両親も家内も香川県の出身なので、うまいうどんを食べなれているわけですから、はっきり言って、あまり期待していませんでした。

憂鬱な気持ちの中、重い腰を上げて、11時過ぎに、工場に到着。1時間ほど工場を見学した後に、大会議室で、うどんをいただきました。

北海道産小麦粉を使った、出来立ての、冷えたざるうどんです。(なぜ出来立てが冷えているかは、バーチャル工場見学を見てください)

目の前には、ざるに山盛りのうどんと、めんつゆに、ねぎと、しょうがと、胡麻の薬味だけのいたってシンプルな、ごまかしの効かない、うどんの味で勝負のメニューです。

さぬき人としては、釜揚げうどんがよかったのですが、工場の工程上、冷やして完成です。

食した感想ですが、これが実に旨い。5人で囲んだテーブルですが、あっという間に空になり、お替りをし、少しでいいですよと言ったのですが、また山盛りのざるがきて、それも5分程度で空になり、再度、お替りをしました。そして完食。

総勢、40人程度のツアーでしたが、周りのテーブルを見渡してみても、ほとんどが、同様にお替りをしていました。

どう旨いのか、説明が難しいので、知りたい方は、こちらでお試しください。

恩地社長、ご馳走様でした。

2010年6月9日水曜日

俺の母校、日本工学院の校友会から蒲田の新キャンパス完成の連絡が入りました。

とても立派な建物でびっくり。この、不景気と少子化の学校経営には厳しい環境の中、よくぞ頑張ってくれました。本当におめでとうございます。

写真を見ても、卒業から30年以上経っているので、昔の景色は残っていませんが、確かに2年間、青春時代を過ごしました。

あの頃は、中村雅俊主演の『俺たちの旅』に共感というか、そのまま地で行くような生活でした。

親元を離れての2年間、本当に楽しく、熱く、そして濃厚な、あっという間の2年でした。
親には、経済的に本当に迷惑を掛けたと思いますが、あの2年があるからこそ、今の自分があると思う。今は亡き、父、母に感謝。

とにかく、あの頃を思い出しながら、言葉を並べてみる。

『赤ちょうちん』 寮の連れと行った。おでんを頼むと、汁を飲み干さないと、追加の注文を受けてもらえなかった頑固親父。すごく大人になった気がした。『神田川』と並んで『かぐや姫』の代表曲だが、どちらかというと『赤ちょうちん』のほうが好きかな。

『池上線』 西島三重子の名曲で大好きな歌です。東京でこの曲が大ヒットしている時、夏休みに大阪に戻ってくると、『京阪沿線』という曲が流行っていたのを覚えている。

『上野動物園』 寮に入って、最初に出かけたところである。とにかくパンダが見たかった。パンダを見た後は、『アメ横』に行ったのを覚えている。

井の頭公園』 あいうえお、といこうと思ったがやめた。ここはなんとしてもはずせない場所で、上記に述べた、『俺たちの旅』の主たる舞台である。テレビを見て、次の日には見に行こうと連れ立って行った。 
今はどうか知らないが、当時、期待に胸を弾ませて行ったが、小汚い小さな公園だと思ったのを覚えている。

2010年5月27日木曜日

人類の進歩と不調和の時代

小学校に上がる前に、住吉公園から西淀川区の野里に引っ越した。
ピカピカの一年生は、野里小学校で迎えたハズ。(ちなみに、入学式の記憶はない)

その頃の、記憶を手繰ってみる。(あくまでもアバウトな記憶、時代考証はかなり甘い・・・)

まず最初は、『夢の超特急!、新幹線ひかり号』の話である。
親父が、当時建築関係の会社に勤めていて、新幹線の駅舎の工事を担当していたおかげで、開業前の試乗試運転の家族招待を受けたらしい。(要するに実験台やな)
新大阪駅から米原駅までの短い距離だったが、子供心にすごく優越感に浸ったことを覚えている。
何せ、学校では、友だちも先生も誰も乗ったことがないのだから、うれしかったはずだ。
でも新幹線が速かったと言う記憶はまったくない。

今、歴史を振り返ると、当時在来線の『特急こだま』で、東京⇔大阪間を6時間以上、掛かっていた訳で、それを一気に半分に短縮したのだから、いかに新幹線が速かったのかがわかるな。

それと、忘れてはいけないのが、東京オリンピックだが、はっきり言って、ほとんど記憶がない。
ただ、『東洋の魔女』と呼ばれていた、女子バレーが強かったことだけは、うっすらと覚えている。

話は変わるが、あの頃の野里界隈には、まだまだ空き地や田んぼがあった気がする。
そして路面電車が近くを、走っていた。
淀川では潮干狩りができていたが、あの頃、急激に水質が悪化し、大きな看板で『遊泳禁止』と張り出されたのを覚えている。

当時、近所の女の子(今に思えば初恋の子かな?でも名前も顔も覚えていない)のお父さんが
水の綺麗ないいところに連れて行ってあげるといって、遊びに行ったのが、今の交野の天の川界隈である。とにかく、大阪にこんなに綺麗ところがあるんだと思った。

あの頃の日本は、すごい勢いでいろんなものを飲み込み、そして破壊しながら成長していったんだなと思う。

2010年5月26日水曜日

「ひろりん」って誰やねん

俺は1957年生まれ、今年11月で53歳。

大阪生まれ、大阪育ち

生まれたのは、住之江区か港区、どちらかだと思う。
もう両親は他界しているので、今となっては謎だ。

自分の記憶にある一番古いことは、幼稚園児の頃、住吉公園近くの自宅から、友達と雪の降る町へ行くといって、北へ向かって歩いて行き、玉出付近で迷子になり、おまわりさんに助けられ、交番で拳銃を触らせて貰ったこと。きっとその後で、母親は始末書を書いたんだろうな・・・

もうひとつ、その頃の記憶で、家の前の道で友達とけんかになり、弁当箱をぶつけられ、おでこを2針縫う怪我をしたこと。今も、うっすらと傷跡が残っている。

その2つは、写真が残っていないにもかかわらず、記憶に残っているので、かなり強い記憶だったんだろう。その時の友達の名前も顔も思い浮かばないが、彼の記憶には残っているのだろうか?

当時、警察にご厄介になったことで、母親からよく聞かされたことが、もうひとつある。
これもまた、行方不明の迷子騒ぎだ。友達とかくれんぼをしていて、行方不明になったらしい。

結論から言うと、お隣さんの、押入れの布団の中で寝ていたらしい。夜遅くになっても、なかなか見つからないので、子供を寝かせるといって、布団を敷こうとしたら、中から転げ落ちてきたらしい。
寝ていた訳だから、勿論、私に記憶にはないが、昔話になると、何かと母が言っていたので、よく覚えている。きっとその時も、母は始末書を書いたんだろうな・・・

その頃の下町は、向こう三軒両隣で、子供も大人も、自由に行き来していた記憶がある。
名前も顔も覚えていないが、なんとなく幸せだった古きよき時代である。